生き方つながるコミュニティ こころーたす

鈴木正三『万民徳用』
 この歌は古歌として、よく歌われていたものであるが、普段は何気なく付き合っている私たちの〝心への警句〝である。  私たちは、いつもコロコロと動く心に振り回されて生活している。コロコロと動く心のままに生きていけば、自分の欲望ばかりを求めて、他人や社会に迷惑をかけることになる。  コロコロと動く心の心底にある本当の心、これが仏心であるが、その仏心をしっかりと見つめて、自分のものにする。 …
沢庵『不動智神妙録』
見たものに、心がとらわれれば、胸にいろいろな感情や意識が生じて、それが心に動揺を起こして、不安定な気持ちになる。 また、見たものに心が止まってしまえば、そこにとらわれて心の動きを失ってしまう。 そのため、ものにとらわれなければ、真の動きがとれる。いわば、心をどこにも置かないことが、とらわれから自由になれるのである。その心を不動心といい、それは誰の心にもある、というものである。 この言…
慈雲『慈雲尊者法語集』
 生きていくうえで、すべてのことに自我を主張しなければ、仏教の守護神である梵天も日月も、その人の頭上につねに輝いて、守ってくれる。  「オレが」「私が」と自分を主張し合えば、そこに争いが生まれる。こうした自我にこだわることは、自分の心に偏った執着をしていることである。自我を棄て、自我を超えよ、というのが、慈雲の教えである。  自我を棄て、自分の心に執着しなければ、それは仏の世界に立つ心…
日蓮『妙法尼御前御返事』
 人の命は無常である。出る息は入る息を待つこともなく、風に吹かれて落ちる露よりも儚(はかな)いものである。  賢い人も愚かな人も、老いた人も若い人も、いずれが先とか後とか定まったものではない。そのため、他のことはさておいても、なによりも先に自分が死ぬときに、悔いのないようなことをまず習わなければならない。  そのために日蓮は、仏典を学び、その中でもっとも優れている『法華経』の精神にたっ…
道元『正法眼蔵』現成公按
 仏道を学ぶということは、仏典の知識をふやし、それを深めることではない。そこに自分という存在の真のあり方や生き方を学ぶことである。  そして、本来の自己のあり方(仏性)を学び、その学び取ったものさえも、忘れてしまうことである。  つまり、自己の存在のあり方を学び、その根底にある本来の自己=仏性をつかむと、自分の身心と他人の身心や事象との対立がなくなり、自他が同一となる世界に立つことがで…
白隠『草取唄』
 人の命は無常である。出る息は入る息を待つこともなく、風に吹かれて落ちる露よりも儚(はかな)いものである。  賢い人も愚かな人も、老いた人も若い人も、いずれが先とか後とか定まったものではない。そのため、他のことはさておいても、なによりも先に自分が死ぬときに、悔いのないようなことをまず習わなければならない。  そのために日蓮は、仏典を学び、その中でもっとも優れている『法華経』の精神にたっ…
良寛『草堂集』
 私たちは、ことさらに英雄ぶらなくても、良寛のいうように自分に驕(おご)り、人を侮(あなど)りながら生きている。  また、名誉とか地位を競い合い、人よりも多く利益を求めようとして、争いを繰り返している。  良寛は、そんな私たちに向かって、こうしたことを百年続けていたとしても、それは春の夜の夢であり、死んでしまえば無に帰すものである、とその空しさを説いている。  「私が」とか「オレが」…
盤珪『盤珪禅師法語』
 迷いというものは、すべて自分の身の可愛さから起こるものである。自分を身びいきしなければ、どんな迷いも生じない。  だが、誰もが自分が可愛いものである。そのため、自分が人や社会から認められなければ、社会やまわりの人が悪いと、責任をなすりつけてしまう。自分を傷つけたくないからである。  しかし、本当に自分を真剣に見つめて、自分の欠点や無能さを知れば、人や社会と調和し、共存することができる…
吉田兼好『徒然草』
 吉日とか凶日というものは、その人の善事や悪事の行為によって起こるものであって、あらかじめ定まった吉日とか凶日があるわけではない。  今日でも、この日は良い、この日は悪いという暦占いに生活が左右されている人が多くいる。吉田兼好が生きた鎌倉時代は、現代以上に占いが生活の中で定着していた。  しかし兼好は、そんな占いの風潮に眉をひそめた。  「昔からいわれていることであるが、吉日だからと…
伝尊『般若心経止啼銭』
 観自在とは、観音菩薩のことである。  悩み事や病気など私たちの苦しみを救うとされる観音菩薩は、私たち人間と異なるものではない。あなた自身の中に観音菩薩がいる、という教えである。  観音菩薩は、それを拝み、祈る人に、救いの手を差し伸べてくれるという。  だが、観音の霊力を信じて祈ることは、その観音の慈悲に包まれて、自分自身で努力する力を自覚することである。  観音が一方的に私た…
道元『典座(てんぞ)教訓』
 他の人は私ではない――という意味である。他人がつくったものや、人にやってもらったものの上に胡坐(あぐら)をかいて、さも自分がしたように思って生きているのが、私たちである。  しかし、それはあくまでも他人のものであって、自分のものではない。それを自分のものにするには、物事に対して自分から主体的に取り組んで体得しなければならない。人任せにはせず、自分が行なうという主体性こそが「吾れ」である…
日蓮『兄弟鈔』
 私たちの「心」は、人や世間との接触の仕方などによって、どのようにも変わるものである。コロコロと変わるから「こころ」だという説もあるほどである。  「うつりやすきは人の心なり。善悪に染められ候(そうろう)」(『西山殿御返事』)  と日蓮がいうように、私たちの心は変化しやすく、すぐに善いことにも悪いことにも染まりやすいものである。そのような感情としての心に従えば、真実の教えと生き方から遠…
南浦(なんぽ)『大応国師語録』
 いつ、どこにいても、自分を信じて、自分がその場の主役であると思って、主体的に行動すれば、その場はすべて真実に包まれているのだから、つねに真実を現わす主人公となる。  真理には、これだという固定されたものはなく、人の縁や物事の縁によってどのようなものにもなり、それが真理となる。そのため自分が今生きているところが、すべて真実の現われであるから、自分を信じて、とらわれのない境地に立っていれば…
沢庵(たくあん)『東海夜話』
 私たちは、心に抱く不安の数だけ恐怖心を持つという。その恐怖心が禍(わざわ)いや祟(たた)りをもたらす鬼や悪霊という“共同幻想”を生み出している。人はそうした恐怖の幻想を創りだして脅えているが、それよりも恐いのは、それを生み出している人間そのものである。  人は人を殺し、傷つき合い、盗み、支配するという恐ろしさを持っている。その原因は、際限のない欲望を持つからである。欲望は一面では生きる…
原坦山(たんざん)『坦山和尚全集』
 原坦山は東京帝国大学で、仏教学を教えた人である。坦山が若いとき、もう一人の雲水(うんすい)と修行の旅をしていた。大きな河に差しかかったが、橋も船もない。衣(ころも)を脱いで河を渡ろうとすると、若い女性が渡れずに困っている。  坦山は、なんのためらいもなく、「私が背負って渡してあげよう」といって、女性を背負って河を渡らせてあげた。その後、二人はさらに旅を続けたが、しばらくすると、もう一人…
良寛『草堂集』(2)
 「昨日は今日と異なり、今朝は明朝に非ず。心は前縁に随(したが)って移り、縁は物と共に新たなり」という詩の一節である。  日々これ新たなりで、人や物事は時の流れに応じて変化している。心も原因によって結果を生じるという縁にしたがって、新しいものに変わっていくものである。  そのため、過ちや間違いは、すみやかに反省して改めることである。いたずらに固執すると、それがたとえ正しいものであったと…
一遍(いっぺん)『一遍上人語録』
 この宇宙・世界・社会・人間という存在するすべてのものは「無」から生じ、人間がもつ一切の煩悩は「我」という自己執着から生じるものである。「無」は、ないという意味ではなく、万物の一切はもともと存在するが、その全存在は無限・無常を秘めているという「無」である。「無」は南無阿弥陀仏の名号に包まれていると一遍は説く。  一方、「我」は「我は煩悩なり」というように、私たちの存在そのものが、煩悩に満…
慧端(えたん)『正受老人集』
 貧しいことも、富めることにも眼中になければ、人としての義理も失わず、人の道も踏みはずすこともない、と貧富に煩(わずら)わされない境地になることを勧めた道歌である。  慧端は、信濃のある藩主の落しだねといわれる人であった。早くから人生に悩みを持ったために、十九歳で出家して修行したのちに、長野の飯山で粗末な正受庵という庵を結んで、母を迎えて一緒に暮らした。藩主は寺を寄進しようとしたが、慧端…
明恵(みょうえ)『栂尾(とがのお)明恵上人遺訓』
 人には、それぞれ生まれながらの境遇があり、そなわった性格や能力がある。人はもちろん努力し、精進して生まれながらの状態を向上させていくものである。  その場合、人は人それぞれの、あるべき姿を認識して、それに徹して生きるべきである。明恵は、それを「あるべきようわ」と漢字七文字で示す。  仏法の修行は死後の安楽を願って行なうものではなく、「ただ現世に、まずあるべきように、とあらん」と、現在…
栄西『興禅護国論』
 私たち人間がもつ表層の心(こころ)や感情の、もっと奥底にある真実としての心(しん)は、なんと素晴らしいものか――。  私たちが普通に考える心(こころ)は、あたかも水のようで器(うつわ)によって、つねに変化する。そこには純真な心も、不純な心も生じる。知識や感情・意識などによっても変化する。もちろん外界の事象にも反応する。  さまざまなものを受け入れ、放出しながらも、心は心である。そ…
源信『観心(かんじん)略要集』
 私たちの心は、鏡のようなものである。鏡は事物をありのままに映すが、表面が曇(くも)っていたり、歪(ゆが)んでいたりすれば、物事を歪んだままに映し出して、その実体を正しくとらえることはできない。  私たちの心も鏡と同じで、心が清らかで正しければ、すべての対象となるものを正しくとらえることができる。だが心が邪(よこし)まで歪んでいれば、そこにさらに塵(ちり)が付いて、ますます歪んでしまうこ…
吉田兼好『徒然草』(2)
「心にぬし」は、心の主人、「若干」はたくさんという意味である。  兼好(けんこう)法師は、人の心を家に譬(たと)えて、心に主体性をもつことの大切さを説く。主人がいる家には、用事のない人は入ってくることはない。だが、主人のいない家には、赤の他人が勝手に入り込み、狐(きつね)やフクロウなどが棲(す)みつく。しかも霊魂や怨霊といった奇怪なものまで現われて、人を恐怖や不安に陥れる。  同じよう…
一休宗純『一休仮名法語』
 極楽浄土や恐ろしい地獄は、死後の世界にあるように思われているが、それはいずれも生きているときの自分の心の中にあるものだ、と一休(いっきゅう)は断言する。  仏にすがり、宗派の教えに帰依したとしても、死後に極楽に生れるということはない。“今を生きている心”そのものの内に極楽に生れる種や地獄に落ちる種が生じている。「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」の三毒に汚染された心のままであれば、その…
慈雲飲光(おんこう)『慈雲尊者法語集』
 慈雲(じうん)は、宗派を超えて釈尊の心に戻れ、と説いた江戸時代の僧である。言葉は中国唐代の禅僧の大珠慧海(だいじゅえかい)の問答が踏まえられている。修行法を聞かれた大珠和尚は、 「飢え来たれ飯(はん)を喫(きっ)し、困(つか)れ来たれば即ち眠る」(お腹がすけばご飯を食べ、眠くなれば寝ることだ)と答えた。  これは、当たり前のことであるが、この当たり前のことを人は何かと理屈をつけて…
鈴木正三(しょうさん)『万民徳用』(2)
「己れに勝つ」ということは、「自分の心に勝つ」ということである。私たちは心に生起する欲望のままに振り回されている。その結果、さまざまな形で傷つき、思い悩む。それは愚かな生き方である。  賢いといわれる人は、自分の欲望や邪心に打ち勝つ“克己心(こっきしん)”をもっている。この克己心があれば、思いどおりにならないと腹を立てたり、惰性(だせい)に身をまかせることはない。むしろ雑念から自由になれ…
一遍智真(ちしん)『一遍上人語録』(2)
 阿弥陀如来の本願(ほんがん)を信じなかった昔の私は、愚かにも浮薄(ふはく)な心の思いのままに従っていた。しかし、今はそんな心さえも捨てて、阿弥陀如来に帰依している。今、我が心はそんな我に従うがよい――。自分の心より阿弥陀仏の本願に帰依することの尊さを説いたものである。  「捨て聖(ひじり)」といわれた一遍(いっぺん)は、一切の所有物を捨て、家族も捨て、煩悩に満ちる心をも捨てて、最後に阿…
最澄『顕戒(けんかい)論』
 「愚か者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める」(『雑宝蔵経』)  これは釈尊の名言である。労せずして益を求める、というのが愚か者であるが、そんな最下鈍(さいげどん)の者でも、ひとつのことを十二年間取り組み続けていれば、必ずひとつは秀(ひい)でるものをつかむことができる、と最澄(さいちょう)は自分の体験からいう。  自分を愚かで才能がない最下鈍の者と反省した最澄は…
道元『正法眼蔵随聞記』
 どんな人でも仏法を修行し、それを実生活の中で実践する力が備わっている。そんな能力などはない、と決して思うな――。  仏法を学ぶことは、人間としての真実の生き方を学ぶことである。それを学びとり、生活の中で仏法を行なうことができる能力を、私たちは生まれながらにして持っている、と道元(どうげん)は説く。ある人が、「私は病身で、仏道を学ぶ力はない」といわれた道元は、  「釈尊の生きておら…
法然『勅修御伝(ちょくしゅごでん)』
 一丈は約三メートルで、その幅の堀を跳び超えるには、一・五倍を跳べるように努力しなければならない。私たちは一丈の堀を跳ぶには、それだけの力があればよい、と思っている。しかし、一丈の堀を跳び超えるには、それ以上の力を持たなければ確実に跳び超えることはできない。  法然(ほうねん)は、この言葉に続けて、「往生を期(ご)せん人は、決定(けつじょう)の信(しん)をとりて相励(あいはげ)むべきなり…
慈円(じえん)『愚管抄(ぐかんしょう)』
 人は誰でも過ちや間違いを犯すものである。もし「自分には過ちは何もない」という人がいれば、その人は自分の過ちに気づかないだけである。  過失を認めて、すぐに反省して改める。これにまさる善はない――。過ちを知りながら、そのままにしておけば、ますます傷口を広げて、さらに大きな間違いを犯してしまうことになる。  過ちを素直に認めて、改めることが、賢い心であり、強い心の持ち主である。立場や…
吉田兼好『徒然草』(3)
 「心は物事に触発されて、ある状態になる」という意味。筆を手にもっと何かを書きたくなり、楽器をもっと音を出したくなるのが、人間の習性であるように、対象物によって心は動くものである。そのため兼好(けんこう)は、対象や形式に心を従わせて、心を形成することを勧める。  たとえば仏前に数珠を手にして、お経を唱えれば、信仰心が形成されてくる。乱れた心であっても坐禅すれば、身心が統一された状態と…
白隠「南無地獄大菩薩」
 地獄や煉獄(れんごく)といった世界は、私たちが持つ死後の恐怖であり、そこに堕ちることへの不安にさいなまれるものである。  白隠(はくいん)も、幼いときに教えられた地獄の凄まじい様相に脅え、地獄から逃れたいという一念で信仰の道に入った。  ところが、地獄や極楽といったものは、人間が不安や恐怖心からつくり出した妄想である、と自覚するようになる。自分の心の迷いや邪心、満たされない思いから生…
日蓮『事理供養御書』
 人間にとって、もっとも尊い財宝は、命である、と日蓮は説く。宇宙をふくめた三千世界にある財物でも、生命に値(あたい)するものはなく、身命(いのち)に代えることはできない。  人の生命は灯(ともしび)のようなもので、これを養う食物は油である。油がなければ灯は消え、食物がなければ生命は絶える、と日蓮は食物を供養してくれた信者に感謝したのである。  食物に支えられる命であるが、その生命は昔の…
無住一円『沙石集』
 無住(むじゅう)は、不安を超えて、安心を得るための心構えとして、「少欲知足」を学ぶことだと説く。  「知足の人は、貧しくても心が広く安らかであるが、不知足の者は富裕(ふゆう)であっても、心が貧しく不安な状態である」  と『遺教経(ゆいきょうぎょう)』が説くように、足(た)ることを知る人は、つねに自分というものの立場をわきまえて満足しているから、安心した心でいられるのである。  人の…
慈雲飲光『慈雲尊者法語集』
 「人と共に一緒に生きて、そこに誠の心があれば、どこにいても不安や心配からは無縁でいられる」と、真心(まごころ)をもって人に接することを説いたものである。  慈雲は「人となる道」という法語では、次にあげる「十善」を行なえば、人が人として生きる道となり、その道を歩めば何の不安も心配も起こらないと説く。  1.慈悲不殺生―生き物を殺さず、慈悲を施す。2.高行不偸盗(ふちゅうとう)―他人の物…
良寛『良寛全集』
 「恒沙」は、インドのガンジス河の砂のことで、無数・無量を表わし、かつ膨大な仏教経典を比喩している。  たとえ万巻の書物を読破したとしても、真実の言葉を身をもって一句知っていることのほうが、よっぽど素晴らしいことだ。その言葉とは、「如実(にょじつ)に自心(じしん)を知る」こと、ありのままの自分の心と向き合って知ることである、と良寛(りょうかん)は教える。  多くの経典や書物を読むことは…
日蓮『西山殿御返事』
 人の心は、いつも猫の目のように変化している。私たちは、そんな心に時には癒され、時には突き放されたり、裏切られたりするという思いを繰り返している。  日蓮(にちれん)も、そんな人の心と葛藤した人である。そして人の心は移ろいやすく、いろいろな刺激を受けて変わるもので、善にも悪にも染まりやすいという。  では日蓮は、心を頼りないものとして否定したのか。もし、そうならば『法華経』の教えを受け…
鈴木正三『盲安杖(もうあんじょう)』
 自分のことをよく反省して、真に自分というものを知れということで、これに続けて正三(しょうさん)は言う。「学問があり、知識を持っていたとしても、自分というものを本当に分かっていなければ、人も物事も知っているとはいえない」と。  私たちは自分のことはあまり深く考えずに、他人や事象に関心を寄せている。他者を知ることで、自分を知ろうとするのである。確かに他者を知ることで、自分を確かめることは大…
沢庵『東海夜話』
 才能や知恵があることを人に見せつけようとする人は、実は才智がないことを現わしているのだ、と自慢する態度をたしなめたものである。また同書で、「目(め)近きことを知らずとて、人を恥かしむるべきにはあらず。珍しきことを一句知りたりとて、人を高く見るべきにもあらず」とある。  常識的なことを知らないからといって、その人を馬鹿にしたり、恥じをかかせるようなことはしてはいけない。また人が知らないこ…
無住『沙石集』
 欠点を言ってくれる人は、私の師である。美点を誉める人は、私に害をなす人である、という意味である。  自分に気づかない欠点や考え方を「それはおかしいよ」と指摘してくれる人を嫌な人だと思ってはいけない。その人こそ自分を正しい方向に導いてくれる先生であり、本当の友だちである。  これとは逆に、私たちは誉めてくれる人に好感を抱いて身近に寄せがちであるが、意味もなく誉め称えられていると、甘やか…
道元『正法眼蔵』弁道話
 一つの事に専念して、それになりきらなければ、真実をつかむ知恵を得ることはできない、と道元(どうげん)は説く。  道元はいう。私たちは広く学び、多くの書物を読むことなど、とてもできない。それよりも、ただ一つのこと(修行)に専念して努力すれば、真実が見えてくる、と(『正法眼蔵随聞記』二)。  私たちは万能という能力には恵まれていない。そのような人もいるだろうが、さしたる才能をもたない私た…
明恵『栂尾(とがのお)明恵上人遺訓』
 「淨頗璃の鏡」とは、地獄の閻魔(えんま)王庁にあって、亡者(もうじゃ)の生前の善悪の行ないを映し出す鏡のことで、業鏡(ごうきょう)ともいう。  明恵(みょうえ)はいう。地獄の鏡に映るのは、日々の行為ばかりではない。誰もみていないからと思って行なったことも、自分の心の中で密かに思うことも、すべてこの鏡に映し出されているのだ。  たとえば、亡き人のために供養したとしても、その心に損得勘定…
日蓮『妙法尼御前御返事』(2)
 人の身長が五尺(約一・五m)や六尺あっても、その人の魂は一尺(約三〇㎝)の顔面に表われ、その顔面の中でも一寸(約三㎝)の眼に表わされる、という意味である。  人の魂は、体や顔にも表われるものであるが、いちばんそれが明らかに示されるのが、眼である。眼は、その人の心が表現されるところである。  日蓮(にちれん)は『法華経』一部八巻、二十八品、六万九千三百八十四文字の全体すべても大切である…
蓮如『蓮如上人御一代記聞書』
 「仏を作って魂を入れず」という諺(ことわざ)がある。いかにも尊いように作った仏像であっても、そこに仏の心が入っていなければ、真の仏像として輝くことはできない。  蓮如(れんにょ)の言葉も、これと同じで、「どんなに経文やその解釈書を学んだとしても、そこに信心がなければ、むなしいものである」というものである。  蓮如は、この言葉の前段で、信心にいたる勉強について述べている。まず子供には書…
親鸞『教行信証』信卷
 この言葉は、『涅槃経(ねはんぎょう)』の一節を親鸞(しんらん)が引用したものである。悉達多(しっだるた)という王が耆婆(ぎば)という名医に、「私が病気になったのは、多くの罪を犯したからであろうか」と問うたのに対して、「王さまは罪を犯したとはいえ、それを恥じ入る心があるから救われる」と答えたときの言葉である。  「慚(ざん)」は、自分の心に犯した罪を恥じて、再び罪を犯さないことである。「愧(…
最澄『山家学生式(さんげがくしょうしき)』
 比叡山延暦寺を開き、日本天台宗の祖となる最澄(さいちょう)の言葉の中で、最もよく知られている文の一句である。   「国の宝とは何物(なにもの)ぞ。宝とは道心(どうしん)なり。道心ある人を名づけて国の宝となす。故に古人いわく、径寸(けいすん)(直径一寸の宝玉)十枚、これ国の宝にあらず。一隅を照らす、これすなわち国の宝なり」 「道心」とは、仏教の真理を求めるひたむきな心と姿勢を持つ人の…
良寛『良寛全集』
 あれが欲しい、これがないから不満だ、といった欲望というものがなければ、あらゆることに満たされる。欲を出すと、それは際限もなく広がってしまい、必ず何事にも不満が生じてきて、行き詰まってくる。良寛(りょうかん)は、無欲こそが充実した人生が送られると警鐘を発する。  良寛にとって“欲”は、世俗的な欲望を指すと同時に、それが自分の心に生じてくる“我”にたいする欲も含まれている。人に向って欲を抱…
無住『沙石集』卷第四
 愛とは、仕えることである、という意味である。無住(むじゅう)のいう「愛」は、人間の欲望としての“愛欲”であり、それがさまざまな元凶となっている、というものである。愛も欲望も人間が抱え持つ煩悩であり、迷いの原因である。こうした「愛」に人は従っている、と無住は指摘している。  だが、「愛」の心は欲望の側からとらえるだけではなく、より高い次元に昇華して、それを救いとしている教えがある。インド…
親鸞『正像末和讃』
 身についている悪い性分が、ますますあらわになってきて抑えることができない。わが心は、人に嫌われる蛇やサソリのように醜いものだ。こう詠んだ親鸞(しんらん)は、続けていう。 「修善(しゅうぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに、虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる」  自分は醜く、人に嫌われる心を持ち、罪深い悪人であるという深い内省を通して、そんな人間でも救ってくれると誓った阿弥陀如来の…
鈴木正三『驢鞍橋(ろあんきょう)』
 仏法というものは、言葉や解釈ではなく、仏法を受け入れている現在の自分の心を使って、今、その場で発現して活かすことである。  今、そこに生きている自分を否定したり、不満を抱くのではなく、前向きに生きること。これが仏法を生きることである。今の自分を離れて、いくら過去を語っても始まらない。また未来を論じても、砂上の楼閣(ろうかく)にすぎない。今、その場で自分の心を活かすこと、それは他の人…
天海―出典不詳
 気持ちをゆったりと持って、物事にこだわらず、仕事をきちんとこなして、性的な欲望を控え目にする。食事は腹八分におさえ、心を広くゆったりと保て、という健康法の教えである。  天海(てんかい)は天台僧で、徳川家康の仏法の師である。上野寛永寺や日光東照宮を造り、百八歳の長命を保った。天海はまた長寿の秘訣を歌にしている。 「長命は 粗食(そしょく) 正直(しょうじき) 日湯(ひゆ) 陀…
仙厓「観世音菩薩」讃
 人の為になるように考える心ならば、喜怒哀楽の心は、すべて観音さまの心のような深い慈悲の行為となる、と他人の為になることを行なえと説いたもの。  仙厓(せんがい)は、この句に続けて、 「己(おの)れを益(えき)せん為に起すならば、慈悲善根の心みな悪業となる。善と悪とは唯一、心の変なり。その一心とは何ぞ、南無大慈大悲観世音菩薩(なむだいじだいひかんぜおんぼさつ)」  これは観音菩薩…
道元『正法眼蔵随聞記』六
 人の心には元来、善や悪といった価値は根づいてはいない。善悪は自他の縁という相関関係によって起こるものである、と善悪を固定的に考えることを戒めたものである。 たとえば、人が求道心を起こして、人里離れた山林に入って修行しようとする。その人は、山林こそが最高の修行の場で、世間は悪い所だと思う。ところが求道心が失われて修行が嫌になると、山林は悪い所だと思うようになる。  私たちも同じように…
夢窓『夢中問答集』
 神仏に祈っても効験(こうけん)がないという人がいるが、効験がないことが効験なのである、と神仏への祈りと、それによる利益(りやく)を求めることを戒めた言葉である。  夢窓(むそう)は、神仏の効験をこう説く。仏や菩薩が持っている根本の力は、人を輪廻(りんね)の迷いから悟りに導くためである。そのために人の願いを叶えることがあるが、願いが満たされると、人はさらに欲望をふくらませてしまう。そ…
日蓮『身延山御書』
 たとえ貧しい人であっても、信心が強く、その志(こころざし)が深ければ、仏になれることは疑いのないことである、と強い信仰心こそが最も大切であると説いたものである。  お金が多くあれば、より快適な生活ができるかもしれない。しかし、お金をいくら持っているからといって、本当の幸福をもたらす信仰心が買えるわけではない。  日蓮(にちれん)は、この言葉の前に、「たのしくして若干(じゃ…
白隠『海老図(えびず)』讃語
 海老(えび)のようにヒゲが長く、腰が曲っていても、ピチピチと健康で元気に満ちた老後を送りたいのならば、大食を控え、同衾(どうきん)せずに一人で寝ることだ、と白隠(はくいん)は説く。  白隠は坐禅と呼吸法による健康法を説いているが、その前提として食欲と性欲の本能の節制こそが、長寿の秘訣であるといっている。 本能のままに食欲や性欲を満たしたら、どうなるか。無鉄砲な若いときであっても…
良寛『若見邪見人(じゃくけんじゃけんにん)』
 世の中の不幸な人々に対して、同情の心が起こらない人は、自分を恥じて深く反省せよ、と自戒をこめて戒(いまし)めた言葉である。  良寛(りょうかん)は、次のような人に救いの手を差しのべよという。心の曲った人、道徳心のない人、愚かな人、醜い人、重悪を犯した人、病気の人、孤独な人、不運な人、体の不自由な人たちである。  この人たちは、いわば世間から冷視されている人であるが、そんな人に…
良寛『若見邪見人』
 寂室(じゃくしつ)は中国に渡って修行して帰国した後、世俗の交わりを避けて、近江(おうみ)(滋賀県)の山中に永源寺を開いた禅僧である。  日が暮れてしまうと、旅人はどの道を行ったらよいか迷うということであるが、もっと深い意味がある。 「日が暮れて」とは、死を迎える老人や悟った人の境地のことで、いくら人生経験を積み、生死を超える悟りの境地に立った者であっても、老いや死を身近に感じると、心…
『碧巌録』第四三則
 この句の前に「安禅(あんぜん)は必ずしも山水(さんすい)を須(もと)めず」とある。坐禅修行をするには、必ずしも世俗をはなれた静寂な山中に入る必要はない。どんな所にいても、無心になれば、それが最高の境地を得る所となる。  たとえ熱く燃えさかる火炎に包まれようとも、無心になれば、それは涼(すず)しいものに感じられる、と外界にとらわれない無我の境地を説いたものである。  この句は、…
親鸞『歎異抄』第二章
「地獄に落ちるぞ」といわれると恐怖を感じるが、親鸞(しんらん)はどんな修行や善行をしても悟ることができない身であるから、自分は必ず地獄に行くしかないと言い切る。  だが親鸞は地獄に行く人は、誰ひとりとしてない、という前提でこの言葉を言っているのである。 親鸞は、誰ひとりとして漏らすことなく救うと誓った阿弥陀如来の本願(ほんがん)を、ただひたすら信じることだけが真実であって、そのことに…
聖徳太子『十七条憲法』第十条
 心に怒りを持たず、外に表わす怒りを捨てて、人と意見が違うことを怒るな、とそれぞれの立場の相違を認めたうえで、お互いを認め合う「和」の精神を持つことの大切さを説いたものである。  聖徳太子は、人それぞれの多様な心とその動きを認めたうえで、我執(がしゅう)によって「和」が乱されている現実に目を向ける。  人はそれぞれの立場に固執して物事を考えるから、自分は常に正しく、他人は間違ってい…
最澄『願文(がんもん)』
 最澄が十九歳で、出家の志しを明らかにしたときに誓った言葉である。 「私は仏の前に伏して誓う。私は自分だけ悟りの味を味わおうとは思わない。悟りによって得られた美味しい果実も一人で食べようとはしない。すべての世界の生きるものと同じく、悟りの境地にいたり、すべての人びとと共に悟りの妙味を味わいたい」  最澄にとっては、自分一人の悟りは悟りではなく、自分一人の救いは救いではなかった。最澄…
道元『正法眼蔵随聞記』
 仏像化されている仏さまは、初めから尊崇され、信仰された存在ではなかった。仏さまは、それぞれ修行して、悟りを開いて覚者となって尊敬された。また仏さまの教えを受け伝えた祖師といわれる人びとも、初めから優れた能力や人格を持っていたのではない。  仏さまも祖師も、元々は私たちと同じような凡人であった。凡人であったときには、悪い心や邪(よこし)まな欲望も持っていた。しかし、その愚かさを反省し…
良寛『戒語(かいご)』
 いかにも相手のことを思いやったようなふりをして、親切そうに接することは、逆に恨みを買う原因となる、と心にもない言動を戒(いまし)めた言葉である。  良寛は多くの戒語を残しているが、そこに共通するのは、自分の心に忠実であることと、人に対して常にいたわりと優しさをもって接しよ、というものである。その中で「心よからぬもの」としては、「人に心をへだてて物をいう」がある。心に思ってもいないこ…
沢庵『不動智神妙録』
 思うまいと思う努力をすることも、それにとらわれて思うことになる。思うまいとさえ思わないことだ、と無想無念の大切さを説いた言葉である。 精神的なショックを受けたときは、そこから立ち直るには、忘れることが何よりのクスリだといわれる。だが、早く忘れたいと思えば思うほど、それにとらわれてしまう。沢庵(たくあん)はこれを「有心(うしん)の心(しん)」という。「有心の心」から解放されるには、何も思わ…
一休『一休仮名法語』
 一休(いっきゅう)は仏教で戒める「三毒(さんどく)」(貪(とん)―むさぼる心。瞋(じん)―怒りの心。痴(ち)―愚かな心)が、人間の輪廻(りんね)の原因になると説いたうえで、その「三毒」のために人は愛執(あいしゅう)の心が深く、人を恨(うら)む心が強いがゆえに、苦しみ悩み、涙を流すと述べている。 それは、すべて心から生じるものであるが、そのような心にこだわり、とらわれていれば輪廻の原因…
鉄眼『鉄眼禅師仮名法語』
 人はみな互いに助け合い、救い合って、一緒に仏法という素晴らしい妙薬を味わい、共に授けられた生命を生きていこう、と呼びかけた言葉である。 鉄眼(てつげん)は黄檗宗の禅僧で、『大蔵経』の刊行を目指して、托鉢(たくはつ)していた。鉄眼は、仏法のために布施(ふせ)することの功徳を説く一方で、恵まれない人々に布施することを心がけた。  道に捨てられた子供を見れば、人に託して乳養(にゅうよ…
一遍『一遍上人語録』
 人はだれでも仏の前では平等であるという心をもって、決して人を差別する心をおこしてはならない、と平等心の大切さを説いた言葉である。  一遍(いっぺん)が言う平等心は阿弥陀如来という仏は、だれ一人として漏らすことなく平等に救うことを誓っている。その仏の絶対的な願いに包まれている私たちも同時に平等心をおこして、他を差別してはいけないというものである。 仏教の根本には、平等という教えがある…
道元『正法眼蔵随聞記』
 人生の真実を学ぶ人は、とりわけ貧しくなければならない、と道元(どうげん)は説く。これに続けて「なお利をすてて一切へつらう事なく、万事なげすつれ」と、利益を求めることをやめて、世間に迎合することなく、そうした思いを投げ棄てることである、と示す。 私たちは、とかく欲望を満たしたいと思いながら生活している。だが道元は欲望の一切を否定する。特にお金などへの執着には、それと対極にある貧乏、すなわち…
『歎異抄』の親鸞の言葉
 「私は善や悪ということについては、まったくわからない」と善悪の価値観を仏にゆだねる親鸞(しんらん)の立場を明らかにした言葉である。 社会の規範でつくられた善悪や、仏を供養する人が善人で、仏を軽視する人が悪人だという行為や心の持ち方で善悪を論じようとすることが本当に正しいことなのか、と親鸞は自問する。  私たちの生きる世界や心は、親鸞にいわせれば、みんな「そらごと、たわごと」であって「ま…
明恵『栂尾明恵上人遺訓』
 自分の欲得のために神仏に祈る人は、その心はますます悪く汚くなっていくばかりで、その願いが叶うことはまったくない、と祈りの心のあり方を説いたもの。  救いを求めて祈る。祈りと救いは一体である、というのが私たちが思う信仰であろう。これは、ある目的を叶えたいために祈る、ということで、そのため祈る対象が、その目的に応じて変わってくる。その対象は、私たちがもつ欲望や、その裏返しの不満の数…
道元『学道用心集』
 もろもろの仏が、慈悲の心をもって衆生を哀れむのは、自分のためとか他人のためといったことから離れた絶対の平等の心において行なうもので、これが仏法のあり方である、と道元は説く。  仏法の修行は自分や他人のためにするのではない。まして名利(みょうり)のために修すべきものでもない。ただ仏法のために、これを修せよ、とも説いている。自他を離れたところに立つ心、それが仏であり、仏法を修すべき…
親鸞の言葉『歎異抄』
 親鸞は今は亡き父母を供養するために、一度たりとも念仏を唱えたことは、いまだかつてない、という意味である。  父母をはじめ祖先を供養することが仏教徒の勤めだ、と考えている人が多くいる。しかし、親鸞はそうした仏事を否定する。その理由を親鸞は、こう語っている。「すべての生きたものは、生まれ変わりする生命の流れからみると、すべての人びとはわが父母であり、わが兄弟である。そのため私たちが死ん…
抜隊得勝(ばっすいとくしょう)『塩山仮名法語』
 仏は救い助けてくれることを使命としているのであるから、だれ一人も地獄に落とすはずはない、という意味である。  抜隊のいう仏とは、だれにでも内在している自心という本性のことで、その自心を見すえて、自心を悟ること。そこに仏がいるととらえている。  だれもが仏をもっているが、その仏を自心ととらえたとき、人は仏となる。そのため自心という仏は、だれ一人として地獄におとすはずはない。 …
無難『至道無難禅師法語』
決して仏になろうなどと思ってはいけない。仏にならないのが、仏である、と自分以外のものとなる仏を求めてはいけないことを教え示した言葉である。  仏になりたいという心は、仏を対象として祈ることである。その祈りはもちろん大切であるが、自分に向かう祈りこそが大事ではないかと無難は考える。 「仏にならぬ」とは、祈りの対象としての仏にすがって、自らを仏とすることではなく、自分に向けた祈りによって…
空海『秘蔵宝鑰』
   あまりにも身近にあるために、見つけ難いのが自分の心である。微細にして虚空に遍く存在しているのが、自分の心のうちの仏である、という意味である。  空海は宇宙のあらゆるものは、諸仏の王とされる大日如来の身体であるととらえた。この宇宙は地・水・火・風・空・識の六大の要素からなり、宇宙のあらゆる現象は大日如来の顕われである。その中で識の心の働きは、大日如来の心である。私たちの心の内にある仏を念じ…
慈雲『慈雲尊者法語集』
   心が動揺していれば、不動である山河や大地まで動くように感じられてくる。しかし、心に動揺がなければ、常に動いている風雲や鳥獣さえも静止しているように思われてくる、と心の動きの機微を説いた言葉である。  確かに心は、ひどく動揺していれば、放逸になってしまう。その動揺は、本来は動くはずのないものまで、心の動きに応じて揺れ動くように思われてくる。その状態を放っていけば、さらに乱れてくる。慈雲はい…
聖徳太子『十七条憲法』
 自分が人の立場などをうらやめば、人もまた自分をうらやむ。うらやむ心や妬みの心は際限のないものである、と人間の心に生じる嫉妬心の恐ろしさを説いて、自戒を促した言葉である。  人間は、才能や技能、さらに富や地位など自分より優れている人がいると、ついつい嫉妬して、その人をそしったり、おとしめたりする傾向がある。聖徳太子は、そうした人間の本性をふまえながら、嫉妬にはきりがなく、泥沼に落ちていくだけ…
最澄『顕戒論』
 この言葉の前に「風の形は見ることはできないが、葉の動きを見れば、風の吹く方向を知ることができる」という文章がある。そのため同じように、「人の心の形は見ることはできないが、その人の動きを見れば、その心のあり方を知ることができる」という意味になる。  これは悟りの実体をどうやって知るのか、といった奈良仏教側からの批判に対して、最澄が反論したものである。  風の形や心の姿は目で見て確かめること…
蓮如『蓮如上人御一代記聞書』
   他人の悪いところはよく分かるが、自分の悪いところは自覚できない、と自己中心に陥りがちな人間に対して自省を促した言葉である。  「われは悪しと思う人なし」と蓮如がいうように、自分が悪いと思う人はいない。そのため対立や争いが生じるばかりか、真の仏法にふれることができない。自分本位の考え方や生き方を改めて、我を捨てなければならない。我執を捨て、無我になることで、争いは回避され、仏法にふれる…
鴨長明『発心集』卷七
 心は愚かしいもので、身体と対立するものとは知らずに、長らうべき命を短くし、欲望のとりこになっている、と心のままに生きることを戒める。鴨長明は『方丈記』を書いているが、仏教説話となる『発心集』も著わしている。  鴨長明は、心が身体の主人であるとする立場をとらない。心は愚かであり、さまざまな欲望に満ちて、それに踊らされるものとみる。それゆえに「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」と説…
聖徳太子『十七条憲法』
 穏やかで、お互いが仲良く、調和のとれた関係こそが、もっとも大切なことであり、和を乱すことのないように心がけるべきである。  摂政になった聖徳太子は、この言葉を国家を運営する指針とするだけではなく、一切の衆生が等しく仏の慈悲に抱かれて生きているという仏教における理想の仏国土の教えを示そうとしたのである。  仏の慈悲は万民に及んでおり「天下和順」「上下和睦すること水乳の如く、心相愛念して…
道元『正法眼蔵』菩提薩 四摂法
 利行とは自分の事はさておき、他人の利益を図る行為のことで、それは人間としての真理に基づく行為であるから、すべて自他に差別なく利益をもたらすものとなる、という意味である。  道元は、師の栄西が餓死寸前の親子に仏教者にとって大切な仏像を作るための材料を与えて、「食べ物に代えなさい」といった行為に心から感動している。さらに道元は「しかあれば怨親ひとしく利し、自他おなじく利するなり」と言葉を続…
一休『狂雲集』
 この言葉の前に「ただ一つの心は、始めもなければ、終わりもない。仏に成ることもない。その心こそが本来の仏心である」という文がある。一休はこれに続いて、「人は本来では成仏しているというのは、仏陀の戯言であって、人は本来、迷いの心をもって生きているのだ」といっている。これは一休独得の反語である。人の心は本来は悟ることができ、成仏できる存在であると、したり顔で説く僧侶に対する皮肉とみてよいだろう…
無難『至道無難禅師法語』
 どんなことでも「これは自分を鍛えるための修行だ」と思って、進んで行なう人にとっては、身体の苦しみなどは消えてしまうものである、と前向きな姿勢の大切さを説いた道歌である。  ともすれば私たちは、仕事でも勉強でも、それをしなければならないという義務感で取り組んでいると、必ずといってよいほど身心に苦痛が伴ってくる。ところが、どんなことでも、それが自分を磨き深めるためのものであると前向きに考え…
日蓮『種種御振舞御書』
 釈尊の教えが、釈尊が生きていた時のように現在にも生きており、今は釈尊が生存されていた時代である、と釈尊の心が現在にも生きていることを説いたものである。  釈尊の慈悲の心は、時空を超えて生きている。それは現在を生きる私たちにも注がれている。これは逆にいえば、現在を生きる私たちにも釈尊の在世当時そのままの教えが、そのまま生きているということである。  日蓮は現在の時代が末法であるととらえ…
源信『往生要集』卷上
 この言葉は「樹は静かならんと欲するも、風やまず。子は養わんと欲するも、親待たず」に続いている。この世では求めるもの、欲するものは、思いどおりになることはない、という。  私たちは、自分が求めたいものを熱望するが、それは余り得られることは少なく、欲求不満が残るものである。求めても得られない苦しみは四苦八苦の中の一つとなる「求不得苦」である。  日本の浄土教を大成した源信は、求めても得ら…
空海『秘蔵宝鑰』
 春に種をまかなければ、秋にはその実を得ることはできないと、善い因をつくらなければ、善い果は得られないとする「因果」の関係を説いた言葉である。  空海は、人の心に本来ある仏性という種を見つけ、それをまくことで、さらに大きく実る仏性をつかむことを勧めている。これについて浄土教の源信は、悪い行いをすれば、春に種をまいても、秋になると必ず悪業の実が実るように、その死のときに明らかにされると説く…
慈雲『人となる道』
 この言葉の前には「水は舟を浮べることができると同時に、沈めることもできる」と説いている。これと同じように、薬は病気を治すことができるが、同時に、命を害する危険もある、と警告している。  応病与薬―これは釈尊が人々の能力や素質に応じて法を説いたことをいうもので、医者が病気に応じて薬を与えることに喩えたものである。  釈尊の教えは、仏法の真理をふまえているために毒薬となって身心を害するこ…
一休『一休仮名法語』
 もとより人間は、その生がどこからきたのかを知らないのだから、その死の行き着く所も知ることはない、という意味である。  人間は生も死も知ることなく、真っ暗な苦海に沈んでいる。仏はそれを哀れんで、さまざまな方便で救ってくれているが、それさえも知らずに悪道を重ねている。たまに仏の教えに従う者がいても、自分の名誉と利益の「名利」を求めて善行するだけである。そんな名利を仏は特に嫌うのだ、と一休は…
夢窓『夢窓仮名法語』
 どうしても極楽に行きたいと願う心こそが、地獄に落ちるきっかけをつくることになる、と極楽を求める心さえ否定する。  人は誰でもが極楽に往生したいと願うものである。ことに生きていることが辛ければ辛いほど、あの世での安楽を求めたいと思う。だが、この世の辛さの多くは、欲望や執着心によって生じていることが実に多いものである。  また求めることが強ければ強いほど、苦しみは増してきて辛くなる。釈尊…
道元『正法眼蔵随聞記』
 病気は心のもち方しだいで変わるものかと思われる、という意味で、「病は気から」ということを実感した道元の名言である。  中国(宋)に渡海した道元は、船中で下痢をわずらった。ところが、暴風に見まわれて船中が大騒ぎになった。それに気を奪われた道元は、病気であることを忘れて、そのまま治ったのである。  その体験から、学道勉学する者は、他のことを忘れて勉励すれば病気も起こらないと思う、というこ…
日蓮『可延定業御書』
 大宇宙の中の第一の王子さまと尊敬されても、命が短ければ草よりもはかないものである、という意味である。これに続いて日蓮は、 「日輪のごとくなる智者なれども、夭死あれば生ける犬に劣る」  ―太陽のように光明をもたらす智者であっても、若死しては犬よりも劣る―と長幼を問わず命の尊さを説く。  この言葉は、病気になっていた富木尼に宛てた手紙の一節で、命の尊さを説き示したものである。日蓮は命の…
聖徳太子『法華経義疏』
 これは何だろうか? と思うところに、その疑問を解決するきっかけがある、という意味である。疑問を抱いて、それを解決することは発明を促すもとであるといわれるが、仏道においても同じで、その真髄をつかむことにつながるのである。  煩悩を去って涅槃を求めよと説く他の経典とは異なって『法華経』は、それを高説する釈尊のように仏となれと説く。そのため人々は大いなる疑問をもったのであるが、その疑問こそが…
鉄眼『鉄眼仮字法語』
 鉄眼は生涯をかけて、『一切経(大蔵経)』の出版を果たした禅僧である。晩年は飢饉に苦しむ難民の救済にあたり、「救世の大士」と崇められた。  言葉の意味は、迷っている人が快楽であると思うことは、それが本来は苦しみの元凶であることを気づかないからである。苦しみを快楽だと錯覚しているのだ、というものである。迷っている人とは、他人や社会の幸福を考えずに、自分の欲得や快楽を求めている人のことである…
日蓮『開目抄』
 一滴の水を味わって広大な海の深層を知り、一輪の花を見て春全体の趣きをつかまえよ、という意味である。  日蓮は『法華経』がほかの経文より勝れているが、その一句でも触れれば、すべての面で『法華経』がほかの経文よりも勝れていることを知ることができる、と一滴の水と一輪の花に喩えたものである。  「一を聞いて万を知る」という諺があるが、この「一」は「万」が持っている本質をあますことなく表わして…
親鸞『唯信鈔文意』
 親鸞は、空海の言葉のように心に仏があるという立場をとっていない。阿弥陀如来が、あらゆる無数の世界に宿って、そこにあふれている、と説く。 親鸞は続けて、こう説いている。  「すなわち一切群生海の心にみちたまえるなり」  阿弥陀如来は、生きとし生けるもののすべての命となって、満ちあふれている、と。阿弥陀如来は、あらゆる世界に現われ、いかなるものにも妨げられない智慧の光明を放っている。そ…
聖徳太子『法華経義疏』
 聖徳太子は『法華経』を伝え弘める修行者が近づいてはならないものとして、真っ先にあげたのが、この言葉である。  「国王や王子、大臣、役所の長官などには近づいてはいけない。それは自らが驕りたかぶる原因になるからである」と。  とかく私たちは、権力を持っている人や有名人と知り合いになると、いかにも自分もステータスが上がったように思い込む。  しかし、それは錯覚であるばかりでなく、彼ら…
空海『一切経開題』
 私たちが持っている本来の心は、私たちの主人である。だが、迷いの心は、外からやって来た客人である、という意味である。  この「本心」とは、菩提心というもので、また仏心、道心というものである、と空海は説く。私たちが本来的に持っている心は、悟りを求める心であり、仏の心であり、道を求める心であるということだ。  仏教には「自性清浄心」という教えがある。これは人の心の本来の性質は、清らかに澄ん…
抜隊得勝『塩山仮名法語』
 生死をくり返す輪廻の苦しみからまぬがれようと思うならば、その苦しみの元凶となる自分への思い上がりを徹底してなくさなければいけない、という意味である。情識とは、わがままな思いとか、うぬぼれの感情である。  私たちは、自分の感情のままで生きていることが、自分を大事にすることであると思っている。だが、その心は自分勝手という汚濁にまみれているのである。  自分を知り、自分の心をつかむことで、…
空海『続性霊集』
 これは藤左近将監という人が行なった亡母のための三十七日忌に寄せた空海の追悼願文である。  その中で空海は藤左近に、母親は婦人としての心がけや身だしなみに優れ、言葉づかいや婦人としての働きにも卓越した「四つの徳」を十分に身につけていたことを賛美している。  こうした四つの徳を身につけて、さらに仏法僧の三宝を敬った人は、弥勒菩薩が住むといわれる兜卒天に住むことができ、悟りの世界に楽しんで…
親鸞『教行信証』
 親鸞の言葉をまとめた『歎異抄』には、  「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」  と、煩悩をそなえている凡夫である人間と、変転してやまない火宅の世界となるこの世は、虚偽にあふれていて、真実というものは、ただ念仏しかない、と説いている。  これと同じく親鸞は、真実の人はきわめて少なく、ま…
無難『至道無難禅師法語』
   「色」とは、欲望や利得を求める心のことである。「欲望の深い人は、他人も欲望が深いと見る」ということで、その心のあり方の危険さを説いたものである。前後の言葉は、  「愚人の見るはおそろし。おのれに利欲あれば、人をもその心をもって見るなり。色ふかきは、色をもって見るなり。聖賢の人にあらざれば、見ることあやうし」  愚かなる人は自分が持っている利欲の心で、他人もそうだろうと思って判断し…
瑩山『伝光録』
 瑩山は能登の総持寺を開いた人で、道元の曹洞禅を継承している。道元は、  「人々みな仏法の機なり。非器なりと思うことなかれ」  と、人間は誰でも仏法を体得できて、それを実生活でも実践できるものを内在していると説いているが、瑩山の言葉も同じ意味である。  道器とは仏道(仏法)を修して、それを実践できる器のことで、私たちには仏道を体得できるものを潜在的にすでに持っているということである。…
平 康頼『宝物集』
 平康頼は、この言葉を女性が持っている本質であるとしている。女性は地獄の使者であり、仏道の修行を妨げる危険な存在であるから、決して近づけてはならない、と説いている。  慈悲に満ちた柔和な顔を持つ美人も、その心は嫉妬や邪まな感情を秘めており、それは恐ろしい夜叉のような存在である。それゆえ、その色香に迷って身を崩すことがないようにという警句になっている。この言葉は女性の内心を表すとして、中世…
良源『註本覚讃』
 良源は、比叡山で天台教学を修して天台座主になった学僧で、比叡山中興の祖とされている。また浄土教を大成した源信の師匠でもあった。  迷ったままの認識にとらわれていれば、石と木は異なったものだと思いこんでしまうものである。だが、仏に導かれた悟りの目から見れば、表面的には形状が違う氷と水は、その本質は同じものであるということが分かるものである。  迷いは物事の本質を錯覚したままでとらえるが…
仙 『仙 六歌仙』
 仙 圧は軽妙な禅画でも知られているが、人間の本質をついた歌も詠んでいる。「老人六歌仙」は、老いの状態と自戒を示している。 ―シワが寄る ホクロがでける 腰曲る 頭がはげる ヒゲ白くなる  手は震え 足はよろつく 歯は抜くる 耳はきこえず 目はうとくなる  身に添うは 頭巾 襟巻 杖 眼鏡 たんぽ(湯たんぽ) おんじゃく(温石) しゅびん(尿瓶) 孫の手  聞きたがる 死にとむなが…
日蓮『法華証明鈔』
 人の命には限りがあるものであるから、死ぬということには少しも驚くことも、恐れることもない、という意味である。  この前提には、日蓮は命を限りなく重視している点がある。  「いのちと申すは、一切の財の中に第一の財なり」  「一日でも大切な命を延ばすことは、千万両よりもはるかに尊いことなり」  などと命は尊く、大切にせよと説いている。  生を受けてこの世に生まれ、死を迎えること…
一遍『一遍上人語録』
 知識をたくわえ学問をしても、それは往生の助けにはならないことを知り、愚かなる自分というものを自覚して、愚痴の存在に立ち返って念仏することである、という意味である。  煩悩にまみれている愚かな自分を捨て去って、自分の存在をも捨て去って、ただひたすら阿弥陀如来の本願に導かれて、それに全面的に帰依せよ、と一遍は説く。知恵も愚痴も、善悪の境界も捨てて、ただ念仏することで阿弥陀如来に絶対的に帰信…
無難『至道無難禅師法語』
 自分の身体は、純然たる仏の心を持っている自分の心の大きな敵となるものである。それゆえに自分の身体には、決して油断してはならない、ということである。  無難は、仏は心であるとして、その心を歪め、仏を排除するのが身体であるとして、身体は地獄であると説いた。身体は、そのまま放っておけば欲望のままに悪行を重ねてしまう。そんな身体の悪を取り去ることで、心の中にある仏を活かす。そのため身体の悪を取…
沢庵『太阿記』
 書名の『太阿記』の「太阿」とは、誰もが持っている宝剣、すなわち自由な心のことである。この宝剣は、人を殺すものではなく、人を活かすために用いられるものである。  それ故に沢庵は、本当の剣の達人は刀を用いて人を斬り殺すことなく、人を活かすものである、とした。「殺人刀、活人剣」という同じような禅語がある。これは人を殺し、活かすということであるが、殺すは心のとらわれを取り去り、自由な心を活…
源信『往生要集』
 源信は『往生要集』で、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)は、苦しみに満ちているから、極楽を願うことである、と説く。  極楽は、人間界では叶うことのないものが実現する世界である。  その世界では、「慈悲、心に薫じて、互いに一子の如し」で、人を慈しみ、人の心を思いあって一つになる。それはお互いが一心同体となれる、うるわしい関係になれるというものである。  源信は極楽こそが人間の理…
道元『正法眼蔵随聞記』
「君子は徳を取って、失を取らずと云える、この心なり」と続く。  その人の優れている点から学び、その欠点を見習ってはならない。君子は、それを行なっているから、君子といえるのである。  私たちは、その人が持っている見習うべき長所を評価することもなく、自分のことはさておいて、とかく他人の欠点をとやかくいうものである。その欠点を自分に引きつけて反省の材料にすればよいのであるが、やはり論うこと…
良寛『戒語』
 人が慎むことは、おしゃべり、長話、手柄話、自慢話である。これは、いずれも「私が」とか「自分が」といった自己主張の表われであるから、それは自戒することであると良寛は説いている。  自己を主張することは決して悪いことではないが、そこに自分を誇るような言動があれば、それは自分を陶酔させているだけの、自惚れの気持ちがある。自惚れている人は、思い上がっているだけで、本当に自分というものを省みて、…
叡尊『聴聞集』
 叡尊は奈良の西大寺の復興につとめ、社会的な弱者の救済や殺生禁断の地を設けた僧である。  叡尊は、当時では珍しく仏教の原点に立つ言葉を残す。すべての生きるものは、仏となれる仏性を持っている。そこには何の差別もない。出家者であろうが、在家者であろうが、そこには何の差異もない。  自分が高位であるからといって、人を敬わなければ、それは驕慢の極みであって、慎まねばならないことである。差別する…