
- いつか立ち上がると信じて
-
スリランカでのスマトラ沖地震による津波支援(1)
スマトラ沖地震による津波の被災地
2004年12月26日、スマトラ島沖で巨大地震が起こり、津波が各国を襲った。数時間の内に12カ国に到達し、24万人の命を奪った。
その年の12月30日、私は二人の同僚と共にスリランカに向かった。津波の被災者を支援するためだ。一緒に行ったうちの一人は、ヨルダンからの一時帰国の途中だった。…
- 誰かの役に立てることが心の癒し
-
スリランカでのスマトラ沖地震による津波支援(2)
スリランカ津波避難所の子どもたち
(2005年1月当時)
津波は恐ろしい。
波が沖まで引いたとき、モハマッドさんはすぐに津波だと気づいた。漁師だから海のことはわかる。幼い息子を腕に抱いて走って逃げたが、あっという間に襲ってきた波に足をすくわれて倒れ、激しい波にもまれた。浜辺で意識を取り戻した時には、息子の姿はなかったそうだ。
…
- 冬の暮らしを守る支援
-
気候や季節に影響される支援活動
新潟除雪ボランティア作業に参加する若者たち
支援の現場で、予想以上に活動に影響を与えるのは気候だ。日本で『お天気任せ』というと、いい加減で無責任で行き当たりばったりの様な響きがあるけれど、いい加減でないJENの活動も大いにお天気に影響される。
中越震災の支援活動の一環でJENが行っている雪掘り支援もこれにあたる。毎年雪がどのくらい降るか…
- 2千2百万人の悲しみ
-
旧ユーゴスラビアと復興(1)
キャンプから親戚や知人のところへ
向かうボスニアの難民の人々
同僚が休暇を取ってボスニアに行った。交流プログラムで桜の苗木を植えるのだという。今頃の季節、ボスニアは雪融けのはず…と夢想が始まる。1994年から6年間の旧ユーゴスラビア駐在の内、後半3年間はサラエボに小さなアパートを借りていた。私にとって第二の故郷(ふるさと)みたいな土地だ。今年…
- 戦闘の始まり
-
旧ユーゴスラビアと復興(2)
支給されたパンを受け取る難民の人たち
あとで考えれば、その日は最初からいつもと様子が違っていた。そして、その違いがどんな重大な意味を持つかも気づかないくらい、私も同僚たちもアマチュアだった。
この当時、クロアチアには4つの国連保護地域があった。セルビア人の立場からは『クライナ・セルビア共和国』という独立国、クロアチア人の立場からは『セ…
- 戦闘に巻き込まれた?!
-
旧ユーゴスラビアと復興(3)
破壊された建物 急に戦闘が始まったオクチャニから避難して、首都のザグレブに着いた私たちは、翌日お客様を空港で見送り、事務所に戻った。砲撃を受けているのに逃げられない難民の人たちや、連絡のつかない同僚のお医者さんのことは心配でたまらなかったが、ともかくもお客様が無事に帰途についたことでホッと安堵した。のどかによく晴れた、爽やかな日だった。
…
- 「避難する」ということ
-
旧ユーゴスラビアと復興(4)
オクチャニで始まった戦闘から逃れるため、私たちは『安全な』ザグレブに『避難』してきた。その後ザグレブが砲撃を受けたので、更に、海辺の町リエカへと避難した。
JENが、当時クロアチアで活動の拠点にしていたのは、ザグレブ、ブコバル、オシエク、スラボンスキブロッド、ダルバル、リエカの6箇所だった。事務所探しの際に家賃の安さを優先した結果、町の中心地からとて…
- 避難する人々の上に降る悲しい雨
-
旧ユーゴスラビアと復興(5)
10日ぶりのダルバルは、すっかり雰囲気が変わっていた。昔は栄えたであろうダルバルは、今回の戦闘で戦火を浴びていないから、町の建物や外観に変化はないはずだ。町の中に避難してきた人を見かけることもなかった。それなのに、たった10日の間に、更にさびれたような、諦めたような、淋しい表情になっていた。
この10日の間、普段に増して敏感に私たちはニュースを追って…
- 支援現場での葛藤と選択
-
旧ユーゴスラビアと復興(6)
戦争で多くのものを失った 1995年8月、戦闘を避けてスロベニアに避難していた私たちは、多数の難民がセルビア・モンテネグロ(当時)に向けて移動していると聞き、ハンガリー経由でセルビア・モンテネグロの首都、ベオグラードに向かった。
ベオグラードに着くとすぐに、国連機関やセルビア・モンテネグロの難民省や赤十字など、難民の人々がどこにいるのか、どんな状態…
- 終わりなき苦悩。漂流する難民・避難民
-
旧ユーゴスラビアと復興(7)
「私は、もう5回も難民になったんです。」
おじいさんは淡々と語った。
難民。漠然と、『戦闘から逃げてきた人々を指す』と思われているこの言葉だが、正式には細かい定義がある。その一つは、国境を越えて避難したかどうか。国境を越えた人は『難民』、国境を越えずに国内のどこかに避難した人は『国内避難民』と分けられている。
だが、避難した人々にとっ…
- 正確な情報とは
-
インターネットと国際協力
インターネットの発展で、私の生活は飛躍的に便利になった。日々、様々なサイトにアクセスし、雑多な情報を瞬時に無料で集めることが出来る。1994年に旧ユーゴに駐在し始めた頃はメールもなく、日本とファックスでやり取りしていた時代。情報集めも難しかったし、仕事に直接関係のないことは調べる余裕もなかった。私は、芸能ネタには特に弱く、キムタクも知らなかった。
「けいこ…
- 働く喜び! 身の丈にあった暮らし方
-
雪囲いのための板を切る。
何をしても楽しい!(新潟・十日町)
先日、NHK教育テレビの番組<ETV特集「金もうけ悪いことですか」~あの人が答える“働く”ということ>に出演させて頂いた。<働く>ということについて、<お金>について、訊かれるままに答えた。このエッセイの題も「わたしと仕事」であることだし、放送で語りつくせなかったことをここで語ってみたい。
それは、<働く>というこ…
- 贈る喜び
-
子どもの頃、秋になるとサンタさんに何をお願いしたかを親に訊かれた。実際のプレゼントが何だったか、実は余り覚えていないが、クリスマスの朝、欲しかったものが魔法のように出現した時の喜びは忘れていない。そしてサンタさんの技に感嘆し、感謝したものだった。
2003年 イラク支援の調査のために訪れた現地で。
生活状況だけでなく、心の不安や悩みなどにも耳を傾ける
国際協力を仕事にするようにな…
- 習うより慣れろ
-
アフガニスタンで現地スタッフと事業参加者とともに
ここ1年ばかりの間に、『仕事』に関して意見を聞かれることが増えた。仕事というのは面白いもので、できるようになったと思ったことが出来なくなる時がある。それをスランプというのかもしれない。そんな模索中の私だが、この仕事を与えて頂いた1994年から、常に前向きでいようと心がけ、より良いやり方を求めてひたすら試行錯誤を続けている。一つ、スランプにな…
- 道なき道を行く人々 カシミール地震からの復興
-
踏み分け道を歩く村人
パキスタンへの出張から戻った。JENが実施しているカシミール地震の復興支援活動を訪問したのだ。カシミールは2005年10月、大地震に襲われた。人里離れたカシミールで人びとは懸命に復興に励んでいるが、遅々として進まない。その一つの原因は道路だ。
パキスタンの首都イスラマバードからカシミールまでは、直線距離で160キロほど。だが、曲がりくねった山道のため走行距…
- 終わらない戦争 2年半後の旧ユーゴを訪れて
-
シポボでJENの現地スタッフだったボヤンと
2年半ぶりの再会 私にとっての第二の故郷、旧ユーゴの国々。この3月にその内の3カ国を訪れる機会を頂いた。スタディツアーの案内役として8日間で5都市を回る旅だ。当時の同僚は、友人は、分裂してしまったそれぞれの国は、どうなっているのだろう。
2年半前にJENが事業を完了した時は、『帰還したり、避難先に定住した難民や避難民たちの自立のめどが立った…
- 小さいけれど大切なこと 女性の自立を願う支援プロジェクト
-
1年前、カメラに背を向けた女性たち 人参、ほうれん草、玉ねぎ、トマト、食用油、洗剤、洗濯バサミ……。買い物に出るときはメモを持つ。病院に行ったら、診察を受けたい科の診察室を探して順番を待つ。私たちの日常は文字を読めることを前提に成り立っている。
もし読み書きできなかったら、私たちの生活は一変するだろう。
電車に乗っていても、どこにいるのかが判らない。ひたすら車内放送に耳をすますか、…
- お節介のすすめ 地球に暮らす住人だからこそ
- 魚網編みのワークショップ。共に作業することで
徐々に打ち解けていく(スリランカ) 都会の人は冷たい…のかどうかは判らないが、私は隣の住人たちの顔を見たことがない。7年前に今のアパートに引越して来た時、手土産を持って両隣と上下の階を訪れた。昔は『向こう三軒両隣』今は『上下左右』と聞いていたからだ。だが挨拶できたのは右隣りの一軒だけ。タイミングが悪いのかと、翌日も週末も様々な時間帯も試したが、結局不…
- 思い浮かぶ豊かな自然と人々の顔 地球のどこかで苦境と闘っている人たち
-
ボスニアの女性・子ども この仕事のお蔭で様々な土地に行く機会に恵まれる。アフガニスタンでは、見渡す限りの茶色の大地が広がる土漠を訪れ、イラクでは50度という気温を体験した。常夏のスリランカや、9ヶ月間も冬が続くモンゴル。そんな中でボスニアの景色は、驚くほど日本の田舎の風景と似ている。
やしの木ばかりの暖かい国もあったが、ボスニアと日本では、樹木の種類もよく似ている。山や川があって清…
- 柔らかい会議 中越沖地震緊急支援
-
柏崎市西山町・中越沖地震で被害にあった家屋
2007年7月16日、中越沖地震が起きた。犠牲者の方々のご冥福とともに、厳しい生活を強いられている被災者の方々の生活が一日も早く復旧することを心から祈っている。また、2004年の中越震災以来、少しの揺れにも敏感になっている前回の被災者の方々の不安を思うと、本当に胸が痛む。あれから、3年も経たぬ間に同じ地域で起きた大震災だ。緊急支援のため、JENは…
- 何を基準に募金をしますか? Webサイトから知る国際協力活動
-
JEN Webサイト http://www.jen-npo.org/
日本各地で出会う人々と国際協力の話をすると、思いのほか多くの人々が、自分も協力したいといってくれる。よく聞くのは「やりたいと思っていたけど、どこに何をしたらいいのか判らなかった」という言葉だ。そしてやっと「安心できる支援の相手が見つかった」と言って下さる。その気持ちは、本当に良く判る。私自身も同じ気持ちだからだ。
…
- 「おはなし隊」が終わります
-
地割れの様子
中越沖地震の支援活動が、10月14日で終わる。2007年7月16日の地震に呼応して、19日に柏崎市旧西山町入りし、それから3ヶ月間続けてきた。JENにしては短期間だが、単純な事業ではなかった。
中越沖地震の支援に携わった多くの人と同様、JENの調査団もニーズの確認に苦労した。被災者の方々が要望を口にしないからだ。
厳しい自然の中で農業に従事してきた人々は、自然…
- 平和を構築するジグソーパズル 国際支援を強固にする人材とは
-
スーダンでの活動を紹介するイベント。活動報告は支援者との絆を深めるとともに、スタッフ間の相互理解にもつながる(東京)
ビジネスの世界で重要な資源は、人、もの、金、情報、というけれど、国際協力も同じだ。中でも『人』だ、と私は思う。
その『人材』。以前は、募集広告を出せば数十通の応募があった。その中で「これは会ってみたい!」と思う様な履歴書が、片手は下らなかった。面接になればする方…
- JENとわたし 世界中の笑顔を求めて
-
パキスタン地震の被災者とともに
私が初めて就職した頃は、まだ『終身雇用制』なるものがそれなりに機能していたから、転職には、マイナスのイメージがあった。根性がないとか我慢が足りないとか飽きっぽいとか『普通の人が備えているべき資質が欠けているから』といった後ろめたさを抱えながら、私は6回仕事を変った。長くて4年、短いところは1ヶ月で退職した。
そんな私がJENに来てから13年半が経過した…
- 変わらずに生き続けている理念 JENスタッフ戦略会議を終えて
-
戦略会議に向かうスタッフ。不安と期待が入り混じる
待望の戦略会議が終わった。2008年1月11~14日の3泊4日。海外事務所と東京本部のスタッフが一堂に会するのは、2001年のサラエボ会議以来だから、約7年ぶりとなる。朝9時から21時まで会議の後に、一献を傾けながら更に再び熱く語り合うという、充実した時だった。
名前からして、この先何年間かの戦略をたてるためのものではあるが、…